
飲用がはじまった当初、コーヒーは一種の秘薬として用いられることが多かったようです。
今日のように飲料として飲まれるようになったのは15世紀頃のこと。
やがて16世紀になると、イスラム圏の諸都市にコーヒーハウスが誕生しはじめます。
美食家として知られるフランスの作家、アレクサンドル・デュマの『料理大事典』によると、
人々がコーヒーハウスに入り浸り、モスクが空っぽになってしまったこともあったとか。
宗教指導者の中にはそんな事態を憂い、コーヒー反対を唱える人もいて、コーヒーは何度も禁止になったり、解禁になったり。
そんなことを繰り返しながら、イスラム圏全体へと広まっていきました。
ヨーロッパで最初にコーヒーハウスが誕生したのは、やはりイスラム圏のトルコでした。
1554年、シェムジとヘケムというふたりのアラブ人が、コンスタンティノープル(現イスタンブール)にそれぞれコーヒーハウスを開業しています。
当時のトルコといえば、オスマン・トルコ帝国。
その勢力拡大とアラブ地域の併合によって伝播し、トルコはヨーロッパにおける「コーヒー先進国」となったのです。
この頃になると、コーヒーは薬用というよりも、嗜好品として考えられるようになっていました。
17世紀になると、コーヒーはトルコからヨーロッパ各国へ伝わっていきます。
記録によると、1602年にイタリア、1618年にはオランダ、1641年イギリス、1644年フランス、1670年ドイツ……。
こうして、17世紀にコーヒー文化はヨーロッパ全土へと広まり、あっという間に各地にコーヒーハウスが誕生していきます。

オーストリアに初めてのコーヒーハウスが生まれた経緯は、ちょっと変わっていました。
1683年、30万のトルコ軍によって神聖ローマ皇帝の居城、ウィーンが包囲された時のこと。
ひとりの男がトルコ人になりすまし、包囲網をくぐり抜けて、ポーランド軍に援軍を要請しに向かいました。
男の名はフランツ・ゲオルグ・コルシツキー。
彼はトルコ人と生活を共にした経験があり、彼らの言葉や習慣に詳しかったのです。
ウィーンではシュターヘンベルグ伯爵率いる守備隊が、援軍を待ちながらひと月あまり町を死守していました。
トルコ風の衣装に身を包んだコルシツキーは、トルコ軍に幾重にも取り囲まれたウィーンから無事脱出。
国王ヤン3世率いるポーランド軍への連絡に成功します。
ポーランド軍は、ウィーンを脱出していた皇帝の軍と合流し、トルコ軍への総攻撃を開始しました。
コルシツキーはこれに先だって再びウィーンに潜入し、守備隊に味方の総攻撃があることを知らせていました。
そのためドイツ・ポーランド・オーストリア連合軍は、ウィーンの外と内からトルコ軍を挟み撃ちすることができました。
トルコ軍は数で勝ってはいましたが、長期の遠征で疲労していたこともあり、連合軍の総攻撃にたまらず敗走。
こうしてウィーンの街は解放されたのです。

トルコ軍が逃げ去ったあとには、さまざまな物資が残されていました。
連合軍にすれば、それらは戦利品です。
戦利品は功績のあった者から分配されていきましたが、大量に置き去りにされた「奇妙な豆」だけは誰も引き取り手がなく、最後まで残ってしまいました。
そこで名乗り出たのがコルシツキーでした。トルコ人の生活や習慣に通じたコルシツキーは、その豆の価値を知っていたのです。
むろん彼の功績を考えれば、この申し出が容れられないわけはありません。
コルシツキーはこの戦利品のコーヒー豆を使って、ウィーンにトルコ風のコーヒーを飲ませる店をオープンしました。
これがオーストリアで初めてのコーヒーハウスです。