
記録によると、アメリカにはじめてコーヒーが上陸したのは17世紀初頭。
イギリスから移民団を率いて新大陸へ渡った、キャプテン・ジョン・スミスが持ち込んだのが最初とされています。
スミスは当時のコーヒー先進国、トルコにいたことがあり、コーヒーに親しんでいたようです。
しかし当時のアメリカはイギリスの植民地。
そのためアメリカには紅茶を飲む習慣がその後も長く残り、コーヒーはなかなか人々の間に広まりませんでした。
そんなアメリカに転機が訪れるのは18世紀の後半。
宗主国イギリスが1773年に「茶法」を制定したことが発端でした。
これに先立つ1765年、イギリス政府は「英仏7年戦争」の戦費をまかなうため、
アメリカに入る紅茶、紙、ガラス、鉛などの物品に関税を課す、
悪名高い「ダウンゼント法」を施行しましたが、反発が強くこれを撤廃。
結局、紅茶への課税だけが残ることになりました。
「茶法」はこの税を免れるための密輸を禁じ、イギリス東インド会社の紅茶だけを免税にするというものでした。
これによりイギリス東インド会社は、事実上アメリカでの紅茶の独占的な販売権を得ることになります。

イギリス東インド会社は当時、ヨーロッパでの販売不振とインドでの凶作によって倒産寸前の状態でした。
そこでイギリス政府はその救済のため、オランダ商人や密輸業者を閉め出し、
アメリカの紅茶市場を東インド会社に独占させようと目論んだのです。
アメリカの人々はこれに一斉に反発しました。
とくに「自由の息子達(Sons of Liberty)」と呼ばれる運動家たちは、
東インド会社の従業員をリンチにかけるなど過激な運動を展開。
そんなさなかの1773年12月、紅茶を満載した東インド会社の輸送船がアメリカの4つの港に入港します。
そのひとつがボストン港でした。
1773年12月16日夜――。顔にペイントを施し、ネイティブ・アメリカン風の仮装をした50人ほどの
「自由の息子達」が、ボストン港に停泊中の輸送船を襲いました。
彼らは「ボストン港をティーポットにしてやる!」などと叫びながら、積んであった紅茶を次々に海に投げ入れました。
この時投棄された紅茶は全部で342箱。東インド会社の損害は100万ドルに上ったともいわれています。
これがアメリカ独立戦争のきっかけのひとつに数えられる、有名な「ボストン茶会事件」です。
イギリス政府はもちろん、これを黙って見過ごしはしませんでした。
ボストン港を閉鎖し、マサチューセッツの自治権を剥奪するという制裁を加えました。
これに対してアメリカ側はフィラデルフィアに各地の代表が集合。
イギリスとの断交を決議しました。こうしてアメリカでは一気に独立ムードが高まりはじめります。
と、同時にアメリカは「脱紅茶」、世界一のコーヒー消費国への道を歩みはじめることになったのです。