Coffee Column - The world history




 コーヒーの飲用は17世紀、世界中へと広まっていきました。 しかし、その生産地となると話は別。 依然アラビア半島のイエメンが唯一の産地で、世界で飲まれるコーヒーはすべてここで生産されたものでした。 コーヒーの需要は拡大し、その輸出でイエメンは巨額の利益を得ることになります。
 コーヒーの木は、イエメンにとって文字通り「金のなる木」だったといえるでしょう。 そのため、その国外への持ち出しは固く禁じられ、禁を犯せば重罪が課せられました。 生産地の拡大は、イエメンにとってはもっとも憂慮すべき事態だったのです。 ちなみに、コーヒーは私たちの知っている「コーヒー豆」になってしまうと発芽しないため、その状態での輸出には問題はありません。 パーチメントコーヒーと呼ばれる脱穀前の豆、実、あるいは苗木の持ち出しを阻止すればよかったのです。

 ところが1695年、コーヒーの国外持ち出しに成功する人物が登場します。 ババ・ブータンという名のインド人でした。 ブータンはメッカ巡礼のおりに発芽できる状態のコーヒー豆を手に入れ、こっそりと故郷に持ち帰ったのです。 この豆は南インド、マイソールの地で発芽しました。 やがてこの木を原木として、コーヒーの木は南インド一帯に広まっていきます。 1696年にはこれがオランダ人によってオランダ領東インド諸島(現インドネシア)のジャワ島へ。 さらに1706年には、ジャワ島で栽培に成功した苗木が、本国オランダの植物園へと運ばれました。
 1714年には、アムステルダム市長がフランス国王ルイ14世にコーヒーの苗木を献上したという記録があります。 ブータンのコーヒーの木の子孫でしょう。 このコーヒーの苗木はパリの植物園に移植され、大切に保存されたそうです。 こうして、ババ・ブータンによって持ち出されたコーヒーの子孫は南インドからインドネシアへ。 さらにインドネシアからオランダへ渡り、とうとうフランスにまで行き着いたのです。
 そして、それから9年後の1723年――。 フランスのある将校が、西インド諸島のフランス領、マルティニーク島へ向かうことになりました。 ガブリエル・ド・クリューという名の歩兵大尉でした。 ド・クリューは配属先のマルティニーク島から一時帰国していたのですが、再び任地へ戻ることになったのです。
 この航海に当たり、ド・クリューはコーヒーの苗木を持っていこうと考えました。 本国の人々がコーヒーに夢中になっているのを見て、思いついたアイデアでした。 この頃すでにオランダはインドネシアでのコーヒー栽培に成功していましたが、 マルティニーク島の気候はインドネシアのそれに似ていたのです。
 しかし、このアイデアには致命的な弱点がありました。 肝心のコーヒーの木がなかったのです。フランスの植民地では、まだコーヒーを生産しているところはありません。 ド・クリューは手を尽くしてコーヒーの木を探しました。 そして、たった一カ所だけ、フランス国内にもコーヒーの木があることを知りました。 アムステルダム市長からルイ14世に献上された、あのコーヒーの木を保存しているパリの植物園でした。 ド・クリューは植物園に話をつけてコーヒーの苗木を分けてもらいました。
 当時の大西洋横断は1ヶ月以上に及ぶ過酷な航海だったそうです。 ある時は嵐に遭い、またある時は海賊襲われて、命からがら逃げ延びたこともあったとか。 水が不足した時には、ド・クリューは自分の飲み水を苗木にやり、なんとか枯らさずに航海を続けました。 こうして数々の苦難を乗り越えて、ド・クリューは無事マルティニーク島に上陸。苗木の移植に成功しました。 カリブ海、および中南米諸国のコーヒーは、みなこのド・クリューの苗木の子孫であるといわれています。 アラビアから南インドに渡り、南インドからインドネシア、オランダ、フランス、 そしてカリブ海へと渡った、ババ・ブータンのコーヒーの子孫です。