Coffee Column - The world history




 ガブリエル・ド・クリューの航海によって、コーヒー栽培はカリブ海周辺のフランス領へと広まりました。 といってもまだ当時、その生産ができるのはフランスとオランダの海外領、そしてそもそものはじまりとなったイエメンだけ。 そのため自らコーヒーを生産できない国は、これらの生産国からの輸入に頼らざるを得ず、貿易収支に少なからぬ影響を被っていました。 当時は、列強による熾烈な覇権争いが繰り広げられていた時代です。 自国の利益を考えれば、コーヒーも自分たちの植民地で生産すべきでしょう。 しかし、生産国の方も当然それはわかっていて、どこも厳重な国外への持ち出し禁止措置をとっていたのです。

 そんな状況下の1727年、ブラジルとフランス領ギアナとの間で国境紛争が起こります。 ブラジルは当時、ポルトガルの植民地で、まだコーヒーの生産は開始されていませんでした。 今日、世界一のコーヒー生産量を誇るブラジルには当時、コーヒーの木はただの一本なく、一粒のコーヒー豆も生産されていなかったのです。 これに対してフランス領ギアナには、すでにド・クリューによってマルティニーク島にもたらされたコーヒーの木の子孫が移植されていました。 2国間の紛争は、そんな状況下で起こりました。

 ブラジルはこの紛争の解決を図るため、使節団をギアナに派遣しました。 その一行の中にフランシス・デ・メロ・パルヘッタというポルトガル軍の将校が加わっていました。 一説によると、たいへんな色男だったとか。 パルヘッタは世界史の上ではほとんど無名の人物ですが、ことコーヒーに関する限り、シーザーやチンギス・ハーン、ナポレオン並のインパクトを歴史に残すことになります。 なにしろ、この時彼がとった行動が世界最大のコーヒー生産国ブラジルの原点となったのです。

 パルヘッタは、ギアナ滞在中にブラジルへコーヒーを持ち帰ろうと考えたようです。 しかし、その国外持ち出しはもちろん厳禁。 そこで彼は、首都カイエンヌのクロード・トルヴィエ総督夫人に近づき、折りを見て便宜を図ってくれるよう頼み込みました。 ラテン男の面目躍如といったところでしょう。 総督夫人はパルヘッタの願いを聞き入れ、彼の帰国の日までにコーヒーを手に入れることを約束してくれました。

 しかし、ことはパルヘッタの思惑通りには進みませんでした。 思いのほか、調停が早々に成立してしまったのです。 総督夫人が約束を果たしてくれる前に使節団の帰国の日がやってきます。 その日、一行の労をねぎらうための総督主催のレセプションが開かれました。 パルヘッタも総督夫人も列席していました。 パルヘッタは、この時にはもうコーヒーをブラジルに持ち帰ることは諦めていたかもしません。 ところが、レセプションの途中で総督夫人が立ち上がり、大きな花束を手渡してくれました。 まさにこの時、総督夫人はパルヘッタとの約束を果たし、ブラジルは、やがて国家経済を担うことになるコーヒーを手に入れたのです。

 パルヘッタはアマゾン河口のパラに帰任し、持ち帰ったコーヒーをその地に移植しました。 こうして17世紀末、ババ・ブータンによってアラビアから持ち出されたコーヒーは、30年の長い旅ののち、ついにブラジルの大地に根付いたのです。 そしてブラジルのコーヒー栽培はここからはじまり、やがて世界の生産量の80パーセントまでを担うコーヒー大国へと発展していくことになります。