18世紀末から19世紀の初頭、世界はたったひとりの男の野心によって翻弄されることになります。
男の名はいうまでもなく、ナポレオン・ボナパルト。
一砲兵隊将校から叩き上げ、フランス皇帝にまで上り詰めた男。
そんなナポレオンには、コーヒーにまつわる逸話も数多く残されています。
1797年、神聖ローマ帝国の帝都、ウィーンに入城した時のこと。ナポレオンは、講和条約を拒否し続けるオーストリアの使節団を前に、恐るべき恫喝をおこないました。
飲んでいたコーヒーカップを床に落とし、粉々に砕け散ったカップを指してこう言い放ったのです。
「余は、貴国をこのようにもできるのだぞ」と。

この恫喝に屈したオーストリアは、同年、カンポ・フォルミオ条約に調印。
この条約によってヴェネチアとジェノヴァ、両共和国は消滅しました。
そして1804年、負け知らずのナポレオンはついにフランス皇帝の座に着きます。
神聖ローマ帝国をまさに砕け散ったカップのように解体したナポレオンは、1806年ベルリンに入城。
勅令を発して、有名な「大陸封鎖」を宣言しました。
各国に対するこの命令は、前年トラファルガーの海戦で大敗したイギリスを大陸から切り離し、経済的に封じ込めるためのものでした。
ナポレオンはその成否を確認するために、イギリスにおける金とコーヒーの価格を絶えず気にしていたそうです。
金の値段が高く、コーヒーが安ければ、おおむね大陸の封鎖は成功しているというわけです。
しかし「大陸封鎖」は、イギリスに対しても効果はあったものの、それ以上の困窮を大陸の人々にもたらしました。
というのも、当時のイギリスは産業革命を成し遂げたばかりの「世界の工場」。
いまだ旧式の手工業が全盛の大陸諸国にとっては、優れた工業製品の唯一の供給源だったのです。
封鎖によって、イギリスの工業製品も大陸に入らなくなり、経済的にも次第に諸国は困窮しはじめます。
砂糖やコーヒーといった各国の植民地からの産品も途絶えました。

こうした状況に耐えかねたロシアは大陸封鎖を破り、1810年イギリスとの貿易を再開。
これに対する制裁のため、ナポレオンは同盟国から徴兵した60万の軍でロシアに侵攻しました。
これが「冬将軍」のためにナポレオンが大敗を喫した、有名なロシア遠征です。
この大敗北は、彼の失脚へのターニングポイントとなりました。
ナポレオンの大敗北に勇気づけられたヨーロッパ諸国は、次第に反ナポレオンの態度をとりはじめます。
「ナポレオンの大陸封鎖によって生じた砂糖とコーヒーの不足は、ドイツ人をナポレオンに対する蜂起に駆り立てた」と、
カール・マルクスは著書『ドイツ・イデオロギー』の中で書いています。
ちなみに砂糖はこの時期にビート(砂糖大根)から製造する方法が生み出されましたが、まともな「代用コーヒー」は、結局発明されませんでした。
まさかと思う方もあるかもしれませんが、ナポレオンの失脚の陰には、人々のコーヒーへの渇望があったのです。
1814年、オーストリア・プロイセン・スウェーデン・イギリス連合軍50万によってパリは陥落します。
「冬将軍」で数十万の兵を失ったナポレオンには、もはや結束したヨーロッパ諸国を相手にする力はありませんでした。
ナポレオンは退位させられ、エルバ島に追放されてしまいます。
「食い物の恨み」ならぬ「コーヒーの恨み」は恐ろしかったということでしょう。