「世界のコーヒーカップ」と呼ばれる世界一のコーヒー生産国、ブラジル。
そんなブラジルをコーヒー大国へと導いたのは、複雑な国際政治と、その結果もたらされた経済情勢の変化でした。
最初のきっかけはあの、ナポレオンによる「大陸封鎖」です。
当時、ブラジルはポルトガルの植民地でしたが、ナポレオンとその「大陸封鎖」によって結果的に独立を果たし、
さらに世界一のコーヒー生産国への道を歩みはじめることとなったのです。
独立前、ブラジルの宗主国であったポルトガルは、フランスの対英戦争には中立の立場を取り、
ナポレオンによる対英禁輸令、つまり「大陸封鎖」には従いませんでした。
これに対してナポレオンは1808年、ジャン・アンドシュ・ジュノー将軍率いる陸軍をイベリア半島に派兵。
リスボンはあっけなく陥落してしまいました。
この時、ポルトガル王室は政府や陸軍とともに大西洋を渡ってブラジルへ亡命。
一時的にリオ・デ・ジャネイロを首都と定めました。
国民を置き去りにし、国の機関がそっくり逃げ出してしまうというのもどうかと思いますが、
ナポレオンの圧倒的な軍事力の前にポルトガルにはなすすべがなかったのです。
それにこの時ポルトガルの採った戦術が、のちに意外な形でナポレオンに打撃を与えることになります。
この時、ポルトガルが採った戦術は「焦土作戦」として知られています。
退却に退却を重ね、敵軍の疲弊を待つ作戦です。
イベリア半島は土地が貧しく、大軍の食料を調達することが困難だったため、フランス軍は徐々に弱体化していきました。
リスボンの占領こそ簡単でしたが、結局フランスは決定的な勝利を上げることはできなかったのです。
そして、その後「大祖国戦争(ナポレオンのロシア遠征)」の際にロシアがこれをまね、
ほとんど戦わずしてナポレオンの軍隊に致命的な打撃を与えることに成功します。

ブラジルに逃げたポルトガル国王ジョアン6世は、ナポレオン失脚後の1820年、
王子ペドロを摂政として現地に残し、本国に帰りました。
ところがペドロは1822年、独立派に推され、本国の了解を得ずして即位。
ブラジル皇帝ペドロ1世として、ブラジル帝国の独立を宣言します。
こうしてブラジルは、300年以上続いたポルトガルの植民地としての地位を脱却し、独立を果たすことになったのです。
ナポレオンの「大陸封鎖」がもたらした意外な産物といえるでしょう。
ヨーロッパ全土にも匹敵する巨大な国土を持った国が、南米にひとつ誕生したわけです。
「大陸封鎖」がブラジルにもたらした影響は国の独立だけではありませんでした。
というのも、「大陸封鎖」下のヨーロッパで砂糖を精製する技術が開発されてしまったのです。
それまでのブラジルの主力産業は砂糖の製造でした。
その砂糖をヨーロッパへ輸出し、外貨を獲得していました。
ところが、「大陸封鎖」によって砂糖がヨーロッパに入らなくなったため、
サトウキビの代わりにビートから精製する技術が開発されてしまったのです。

ヨーロッパが砂糖の自給に道を開いてしまったことは、ブラジルにとっては死活問題でした。
自給できるとあれば、わざわざ輸入する必要はありません。
経済を砂糖の輸出に依存していたブラジルは、基幹産業を砂糖の生産から別の産品にシフトする必要に迫られました。
そこで俄然注目を浴びたのがコーヒー栽培でした。
ブラジルにはコーヒー栽培にうってつけの、広大な「霜の降りない高原地帯」がありました。
こうしてブラジルの農業はサトウキビからコーヒー栽培へと大転換を果たし、
のちに「世界のコーヒーカップ」と呼ばれるコーヒー大国への道を歩みはじめることとなったのです。