大豊作による価格暴落と、第1次世界大戦による消費低下の危機をかろうじて乗り切ったブラジルを待っていたのは、
「黄金の20年代」と呼ばれる平和と繁栄の時代でした。
第1次世界大戦は終結し、ヨーロッパは戦争の疲弊から徐々に回復。今や最大の顧客となったアメリカは経済的繁栄を極め、
コーヒー需要も回復して、ブラジル経済もかつての勢いを取り戻していきました。
人々の購買意欲は向上し、コーヒー需要も右肩上がりで上昇していきます。
そんな世界的な好景気の中、コーヒー生産国はどこも増産の必要に迫られました。
そこで彼らはこぞって新たなプランテーションの開拓に着手。
世界のコーヒーの作付け面積は過去最高のものとなります。
もちろんコーヒーが収穫できるようになるのは作付けから4〜5年後のことになるため、
この時期に開拓されたプランテーションのコーヒーが実際に市場に出回るのは、1920年代の後半ということになります。
ブラジルは十数年前の豊作による価格暴落の危機を忘れたわけではありませんでした。
この状況下で経済が減速すれば、当時の二の舞です。
けれどもこの好景気ばかりは、しばらくは続くだろうと誰もが信じていたのです――。

が、1929年10月24日木曜――。
その日のニューヨーク証券取引所の朝はいつもと何も変わらなかったそうです。
寄りつきもごく平穏なものだったといいます。
ところが、徐々に売りが膨らみはじめ、昼前には市場は売り一色に。午後になっても持ち直すことはなく、
ニューヨーク市場は大暴落を起こします。
結局、この日だけで売りに出された株は約1300万株。史上空前の大暴落でした。
いわゆる「暗黒の木曜日(Black Thursday)」です。
翌25日には急遽銀行家や株式仲買人が会合を持ち、共同で買い支えに出ることで合意。
このニュースが市場に伝わったため、ひとまず市場は平静を取り戻し、この週の取引を終わります。
といっても、この日だけで11人の投資家が自殺を図ったそうです。
しかしそれも、世界を破滅寸前まで追い込むことになる「世界恐慌」の予兆に過ぎなかったのです。
週が明けて28日、ダウ平均は一挙に13パーセントの低下。
さらに29日には株価は取引開始直後から急落し、午後には市場を終了前に閉鎖するという事態に至ります。
結局この日のダウ平均の下落幅は12パーセント。たった1日で140億ドル、1週間で300億ドルが消し飛んでしまいました。
これはじつに当時のアメリカの国家予算の10倍に相当する金額です。
その後アメリカでは株価が80パーセント以上下落し、失業率は25パーセントに及びました。
銀行は次々と閉鎖され、33年にはついに全銀行が業務を停止します。
この一連の株価暴落は世界へと波及し、さらに暴落が暴落を呼び、世界経済は混乱の極に達しました。
世界の貿易は最大70パーセント減少。失業者は5000万人に達したともいわれています。
産業革命後、工業国ではたびたび恐慌が起こっていましたが、これは規模も範囲も人類がはじめて経験するスケールのものでした。
「世界恐慌」のおもな原因は20年代のアメリカの生産過剰にあったと考えられています。
第1次大戦ののち、「世界の工場」の座をイギリスに取って代わったアメリカは、大戦で疲弊したヨーロッパへの輸出、
モータリゼーションによる消費の向上などによって、建国以来の繁栄を謳歌していました。
しかしその陰では農作物の生産過剰が発生。
さらにソ連の社会主義化による世界経済からの離脱、またヨーロッパの産業の回復もあって、次第に相対的な経済力を低下させていたのです。
ところが、好況に支えられてアメリカでの投機熱は高まるばかり。
各方面からだぶついた資金が株式市場に流入し、これがさらなる株価の上昇を招きました。
ダウ平均は暴落前の9月、市場最高値を付け、5年間で約5倍に膨らんでいたのです。「バブル経済」というより他にいいようがありません。
さて、コーヒー生産国では、20年代の前半に耕地を拡大、作付けされたコーヒーが奇しくもこの頃一斉に収穫樹齢を迎えていました。
恐慌によって、完全に購買力を失った世界市場に膨大な量のコーヒーが出てくるわけです。
というより、出しようにもこのコーヒーを消費できる国は地球上にはもうありません。
その最大の生産国がブラジルでした。大量のコーヒーが焼却され、海に捨てられ、石炭の代わりに蒸気機関車の釜に投じられました。
もちろん、他の生産国とて状況は同じです。この時期に廃棄されたコーヒーは、ブラジルだけで4700万トン。
世界の全消費量の2年分ともいわれています。コーヒー生産国の受けた打撃は、文字通り壊滅的なものとなりました。
その後、回復の兆しが見えはじめるのは第2次世界大戦終結後のことになります。